LUNA SEA / MOTHER STYLEを聴いて

過去と今。
今とは何かを問いかける。

 

昔を越えようとしているわけではない。
今出来ること、今じゃないと出来ないことをやっている。
仮にMOTHER、STYLEの再録が2018年までに行われていたとしても、ここまで現在のLUNA SEA色を出すことは出来なかっただろう。

 

RYUICHIの歌声が変化し、歌詞を置くようになったことで重みと説得力が増した。
INORANとJの変化も興味深く、現代の音でありながら当時の音にも寄り添っている。
この2人が今2アルバムの安定感に繋がっている。
特にJはFender以外のベースを多く使っていることにも注目。
SUGIZOと真矢の音は楽曲によって少しバラけており、なにか熱量の差のようなものを感じることもあるが、本人達の調子やプロデューサーであるスティーブ・リリーホワイトの意向も関係しているかもしれない。

 

今作が再録であることに対し否定的な意見があるのも理解している。
それぞれに当時の思い出がある。
しかしそれを排除してみてはどうだろうか。
違う体験を得られるはずだ。
LUNA SEALUNA SEAを比較しても何も生まれない。
昔も今も同じLUNA SEAである。

今のLUNA SEAは今だけだ。

 

否定的な意見の中にはおそらくだが2023年現在の音楽リスニングが伴っていない、アップデートしていない人が多くいるように見られた。
これに関してはCROSSの時も同じ意見を書いた。
スピーカー環境は難しいので、良いヘッドホンやイヤホンで聴くことを勧めたい。
低音の再現力、音の分離を重視したものだとより良いだろう。

 

FAKEとSELVESの歌詞が現代に突き刺さる。

ロックバンドの魅せ方、目に触れる機会

ビッグになったメジャーなロックバンドがステージに立ち、披露する。
センターのボーカル、上手下手のギターとベース、奥にあるドラム、紋切り型になっていないだろうか。

音響と映像の兼ね合い、舞台と客席形状において合理的であるというのが大きな理由であるが、それにしては変化するパターンが少ない。

 

ドラマーが見たいのにボーカルで見えない。ベーシストが見たいのにギタリストで見えない。

 

そしてスポットライトのあたらないステージの隅で演奏しているキーボーディストやサポートミュージシャン。
サウンドとして非常に重要な役割を担っているにも関わらず姿を消されている。

 

私はこれらをロックバンドに関わる音楽業界の悪しき慣習であると認識している。
隠すように裏に置く、そんな時代はとうに過ぎているはずだ。
ファンの満足度を総合的に上げるのであれば、クレジットすべき人の名前はもっと増やし、ステージ上で一言でも紹介するほうがライブの充実感につながるだろう。
良い情報に触れる機会が増えることに越したことはないと私は考える。

 

客の奪い合い、可処分時間の奪い合い。
現代においてはインターネットが強大な力を持っている。
音楽業界は客の奪い合いよりも客の共有、音楽というコンテンツ内での横の繋がりが重要。
既存のインターネットコンテンツをうまく利用するために、ライブ中に観客が撮る画像や動画の許可をもう少しでも増やし宣伝効果を生むことを期待してもいいと思うのは甘い考えか。

 

上記のようにインターネットが使える前提を踏まえたうえで、Ifの世界ではあるがSNSが消えたその後もよく考える。
現在のインターネット上における発信力が失われても残るもの。
感動体験の思い出を語り継がれること。
そのためには旧態からの変化が鍵となる。

LUNA SEA / バンドの柔軟性

まず先に、今回のブログ内容はあくまでもLUVとCROSSの発売日に合わせただけであり、CROSSのツアーFINALに向けた内容ではないことを記しておく。

 


PHILIAでJが弾くピアノに違和感があっただろうか。
驚きと賞賛の声はあったが否定的な意見は私の目では見つけられていない。

 

この延長線で過去を見る。
RYUICHIがギターを持つこと、SUGIZOのヴァイオリン、INORANギターシンセサイザー、真矢の電子ドラム、Jのフロアタム。
それぞれにおいて音楽的な不都合があっただろうか。

 


現在のLUNA SEAファンの中でのやり取りされる主な内容はライブ演奏曲とセットリストの流れだろう。
型にはまったような似通ったセットリストに私は新鮮味を感じられない。
しかしセットリストが同じでも前述のようにメンバーが違う動きをすることで新たな面が見られるようになる。

 

SUGIZOINORANのパートチェンジ
Jがギターを弾く
SUGIZOがベースを弾く
真矢が歌う
RYUICHIがギターに徹する

 

この中のひとつでいいのでそんなライブを観てみたい。

単純なパートシャッフルのままごとではなく。
ソロ活動では既にやっているのだから、LUNA SEAブランドでやってはいけないという決まりもない上に、爪を隠し続けてもただ勿体無いだけと私は思う。

 

音楽活動において別の楽器を演奏することは自然なことである。
ビジネス面において、特にイメージ的に担当楽器以外の比重が高くなることは敬遠されるだろうが、バンドとしてファンとしても損した気分にならないと思うがいかがだろうか。

LUNA SEAという大きな先駆者だから出来ること、可能性をこの先も是非見たい。

LUNA SEA / CROSSを聴いて その4

CROSS発売から約1ヶ月。


今後もスティーブや外部プロデューサーを迎えられる状況を見込める中で、5人が集まって作った曲を聴きたい願望を私は拭えずにいる。
これが贅沢であることは重々承知の上で。
CROSSのアルバム自体の出来は素晴らしいが、バンドとしての相乗効果をもっと感じたい。

 

私はLUNA SEAではRYUICHI・真矢原曲のバランス感覚が好きだ。
特にREBOOT以後ではRYUICHI・真矢原曲は5人の音を平等に聴かせたいように感じ、弦楽器3人の原曲はRYUICHIの歌を聴かせたい思いが強いのではと感じている。

 

バンドサウンドとは何か。
メンバー全員揃えばバンドサウンドになるというのも古い価値観であるかもしれない。
データだけで曲をまとめるのは今の音楽業界ではよくある事だが、バンドという売りで顔を合わせない曲作りでは絶対的なパンチが不足すると私は感じている。

 

時間的・人的分業によって曲の意思が薄れるという観点では、バンド単位の分業で薄くなる部分はドラムとベースが顕著。
曲の骨組みが大まかに決まるとリズムを動かせない、もしくは上にどんなフレーズが乗っても対応できるようシンプルになる傾向が強くなる。
CROSSやLUVに物足りなさを感じる方は、いわゆるリズム隊の印象的なフレーズの少なさが気にかかっている方が多いのではないだろうか。

 

CROSSでのJは単音含め多様なフレーズが見られ、REBOOTからは音色の幅も増えている。
真矢は体力面で本当に大丈夫なのか気にはなるが、電子ドラムe/MERGEの導入で表現の幅は広がっている。
メンバーそれぞれ出来る事は増えているので今後も大いに期待している。

 


静寂イントロのSUGIZOの空を舞うように歌いあげるギター、CROSSの中でもかなり好きなポイントだ。

LUNA SEA / CROSSを聴いて その3

曲間の無音部分の長さに美を感じる。
曲の出だしと終わりの調整も美しい。

 

アルバムジャケット、ブックレットのアートワークが素晴らしい。
CROSS収録曲のPVがあるとするならば、このアートワーク以上に相性の良いものが作れるだろうか。

 


今はアルバムを逆順で聴いている。
重厚過ぎるかもしれないが破綻はないので興味を持たれた方は試してみてほしい。

LUNA SEA / CROSSを聴いて その2

プロデューサーの影響か、日本語の歌詞として聞いてもらいたい子音と母音の強い部分が邦楽としては控えめにされているが、バンドとしてよりまとまりのある方向になった。
真矢のドラムとJのベースが生き生きとしている。
INORANSUGIZOの音に芯がある。

 

歌詞の深み。
今を生きていく上で様々なことが起こる。

 

プロデューサーを迎えたことが実験的アプローチなので曲調に実験的なものは発見しにくいかもしれないが、今までになかった安定感と独特の枯れや哀愁がある。
気を張りすぎてもいない、張らなすぎてもいない。
生きることを伝えるアルバム。

 

新しい古いという物差しで過去や他のものと比較する必要はない域に達したとCROSSを聴いて感じた。

 


今はCROSSからLUV、A WILLと続けて聴いている。
ますますREBOOT以降の曲だけでライブを行ってほしい。

LUNA SEA / CROSSを聴いて

LUNA SEAの今と未来が詰まっていた。

 

現在を知れるという点ではLUNACY以来の新譜なのではと私は捉える。
期待を超え、同時に得られた安堵と解放感。
初めてLUNA SEAに触れる方に勧めやすいアルバムが新譜であることの意義は大きい。

 

私には曲順が新鮮で、流れが洋楽とも邦楽とも違う。
環境が整ったLUNA SEAの果てしない強さ。

 


聴いた方はレビューや感想を発信してほしい。
この新譜CROSSの反響が少ない音楽シーンなど嘘に等しいのではないだろうかと考えている。